「イエス様は泥でなにを作ったか?」
ヨハネの福音書9章1-41
By Rev.Taisuke Usui
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陶器師は泥から器を作り、神様は泥から人を作った。ではイエス様は泥からなにを作ったのか?
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この話は「イエスは道の途中で生まれつきの盲人を見られた。」との文章から始まります。盲人をいやす話は、マタイ、マルコの福音書で2回、ルカの福音書で1回でてきますが、このヨハネの福音書に出てくる盲人は、他の盲人といろいろな面で違っていて特殊です。また疑問点も多いです。
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 まず、この話は、とても長い。
 他の3つの福音書の盲人の話は数節なのですが、彼の話は、9章全部であり、41節もあります。

ヨハネの福音書の約5%がこの話です。
 

 他の3つの福音書がイエス様の公生涯の記録に重きを置いているのに対し、ヨハネの福音書はイエスの神性の確認に重きが置かれています。この福音書が書かれたときは、迫害が吹き荒れ、一緒だった12使徒もパウロもステファノも、ヨハネの同胞は皆、殉教した後でした。

また、イエス様と同じ時代を生きていた人から、3世代以上、世代交代がすすみ、実際イエス様を見た人も、ヨハネ以外ではほとんどいなくなってもいました。

そのため、「イエス様は実在しない、霊的な人だった。」とか「イエス様は他の預言者のようにすごかった。」といった異端がとても広がっていました。
 そのような、キリスト教の危機の時代に対し、イエスの神性の確認に重きを置いて書かれたヨハネの福音書で、なぜ、このたったひとつの「奇跡」が福音書全体の5%も使われて書かれたのか?とても単なる奇跡の記録とは思えません。


 彼に関して言うと、

 

1. 彼はイエス様になにもお願いしませんでした。
  もちろん「憐れんでください。」とも「癒してください。」とも言っていません。

  なのにイエス様は彼をいやします。

  それも、他の盲人のように、すぐに癒すのではなく、イエス様は、彼の目の部分に自分のつばと土をこねて作った

  泥を塗って、シロアムの池で洗わせて・・と言った、まわりくどいことをします。

 

2. 彼は、シロアムの池で目を洗い、目が見えるようになった後も、イエス様が誰なのかわかっていませんでした。
  彼は「イエスという方が治した。」(12節)と言っており、また「預言者だ。」(17節)と言っています。

  つまり、他の福音書の盲人が叫んだように「ダビデの子。」「主よ。」といった、「救世主であり、世界の王の王である

  イエス様」とはわかっていなかったのです。
 


3. 彼は物乞いをしていたけど、「哀れで、まずしく、頼る人もいない。社会から追い出されていた盲人」というステレオ

  タイプにあてはまりません。
  まず、両親がいて、家があります。(18節 - 23節)

  「頼る人が誰もいない絶望しきった人生」というわけではなかったはずです。


  そして、とても神学に精通した知識人でもあります。

  その当時の神学の権威ともいえるパリサイ派の律法学者を神学で論破します(24節- 34節)。

  今で言うと、一般人が六法全書を使って弁護士の権威のような人を法律論でやりこめるようなものです。

  これは彼が、とても高度な教育を受けれる環境で育ったことをあらわしています。
 


 そんな彼が、誰かわからない人に、頼みもしないのに、自分の見えない目に唾で練った泥を塗られて「シロアムの池まで歩け」と突然言われたのです。

「そうすれば、目が治る」とも言われていません。

彼はとてもインテリで、このシチュエーションがどれだけ「変」か、十分理解できていたはずです。
 


でも、彼は歩きだします。
 


 後の研究で、その場からシロアムの池までは800mくらいあったそうです。

グーグルの画像で僕も見たのですが、いまだに整備されていない、でこぼこの砂利道で、池の周りは石畳みの階段があります。盲人にとって、どれだけ大変な道のりか容易に想像できます。
 

 結構、人通りも多いです。目に泥を塗って手探りで歩く姿は、くすくすと笑われたり、変な眼で見られたでしょう。

からかう心ない人もいたと思います。
 


でも、彼は歩き続けます。
 


彼は「イエスという方(誰かは、わからないけど・・)」を信じたのです。

そして、目を洗い、目が見えるようになります。


ところで、この話のクライマックスはどこでしょう?
クライマックスとは、話の主人公の「最高の場面」です。
この話の主人公である、盲人にとっての「最高の瞬間」とはどこでしょう?

 

目が癒されたことでしょうか?
それとも律法学者をやりこめるところでしょうか?
それは、自分の身に起こった身体的な奇跡以上に、彼のこの言葉に集約されます。


「主よ、私は信じます。」(38節)


彼は、信仰告白をし、魂が救われたのです。

まさに、彼の魂が救われた、この瞬間がクライマックスであり、この話の中心でしょう。


 


ここで、今日のメッセージを終わる前に、この話の冒頭のイエス様と弟子との対話をもう一度見てみます。(2節-3節)

弟子「先生。彼が盲目で生まれたのは、誰かが罪を犯したからですか?この人ですか?その良心ですか?」
イエス様「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。」

弟子たちは当時のユダヤ的常識観をもとに質問しています。

それに対してイエス様が答えた中で使われている言葉「神のわざ」とは具体的になんでしょう?
 

極端な話、現代では角膜移植、眼球移植といった視力回復の医療的可能性もあります。

「神」でなくても盲人をいやせる可能性はあります。
 


ここで、この盲人に対して現わされた「神のわざ」とは、まさに「ある一人の魂を救うことです。」

これは、神の子であり、神と等しい存在であり、神そのものであるイエス様にしかできません。
 


そしてイエス様は、イエス様が誰かすら知らない人に「信じる心=信仰」を与え、あり得ない状況下でも信じ続け、

歩き続ける心を与えることができます。
 

 


イエス様が泥で作ったものは「目」だけではなく「信仰」です。


「あなたがたは、恵みゆえに、信仰によって救われたのです。それ(その信仰)は、自分自身から出たものではなく、

神からの賜物(ギフト)です」(エペソ2:8)


僕らが救われ、神の前で正しい者とされた(義とされた)(Rom5:1)、その信仰も、まさにイエス様が作ったものでした。その恵みをもう一度ともに確認しましょう。

 


最後に今日、この9章の話で、ずっと触れていなかったところについて話させてください。

「私たちはわたしを遣わした方のわざを、昼の間に行わなければなりません。」(ヨハネ9章4節)

 イエス様は「私たち」という言葉を使い、僕らに語りかけます。

僕らの主であるイエス様は、この世で僕らが生きている間(「昼の間」)に僕らと一緒に「神のわざ=ある一人の魂を救うこと」をしたがっています。

「わたし(イエス様)と一緒にしなければいけない」と僕らに命じています。
 


 臆病になることも、できないのでは?と思う必要はありません。

僕らの主イエスキリストは、泥からでも、その人に「信じる心」を作れます。

そして、彼が頼んですらなくても、惜しげなく与えます。
 


 主の語りかけにAmenと力強く答えましょう。

そして、誰か、ある一人が「主よ、信じます」と告白でき、その魂が救われるために働きましょう。

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Faith without deed is dead
「信仰も行いがなかったら、それだけでは死んだものです。」(ヤコブ2章17節)


 今日、ここで、自分の身の回りで、または自分と近しい人で、まだ主イエス・キリストに出会っていない人を数人、数えてみてください。そして、その人の魂の救いのために自分が具体的にどう働けるか?祈ってください。自分の中の聖霊に問いかけてみてください。
 主、イエスキリストは、あなたと一緒に働きたがっています。そしてイエス様の名には信仰を与える力があります。それを信じて、今、ここで思い描いた、まだイエス様を受け入れていない人の救いのために働きましょう。