ダビデにジェラシー(Ⅰ列王記11:34)
 


 小学生の時、ジュニア展という絵画で銀賞をもらったことがあります。僕自身、絵も全く興味なかったし、ジュニア展自身も何も興味なかったです。でも、そのとき、母親に褒めてもらったのがとっても嬉しかっです。20代のころ、ミュージシャンをしていたとき、尊敬してやまなかったアーティストのバックをする機会がありました。メンバー紹介の時、ステージで彼は「マイギター」と僕のことを紹介してくれました。そのとき、身震いするほど嬉しかった記憶があります。想像してみてください。例えば、クラッシックのフルートをしていて、小澤征爾に「私のフルート」と言われたらどうでしょう?ドラムをしていて、レイチャールズに「マイドラム」と言われたらどうでしょう?天にも昇るような嬉しさと、光栄さに身が震えるのでしょう。

 そう、人にとって、敬愛する人や尊敬する人に、認められる、特別(スペシャル)だと扱われることは、とてつもない喜びであり、誇りにすら思えることなのです。

 
 サムエル記を読み、歴代誌を読んでいく中で、僕は不思議な感情に襲われました。神ご自身が何度も「わたしのしもべダビデ」と呼ぶのです。(Ⅰ列王記11:32 / 14:8)そして、「「私の命令とおきてとを守り、心を尽くして私に従い、ただわたしの見る目にかなったことだけをした。」と神ご自身がダビデについて言います。(Ⅰ列王記11:34)とも語ります。


 僕は、主イエスを敬愛しています。そのなかで、このダビデへの神ご自身の言葉に、僕はなんとも言えないジェラシーを感じ始めたのです。僕も彼のように主からスペシャルな存在と思われたい。「マイ・ギター」「マイ・ドラム」というふうに「わたしのしもべ」と呼ばれたい。


 そのようなジェラシーから、「ところで、ダビデってそんな立派な人生だったか?」なんて上げ足を取りたくもなります。


 ここで一つの質問がでてきます。「神に好かれる」「御前にスペシャルである。」とは、どんな人なのだろうか?どうあればいいのか?なにをすればいいのか?

 


 毎朝1~2時間の祈りを捧げ、食事のたびに家族で感謝の祈りをささげ、品行方正、よい父であって家族を大切にし、よい夫であり、浮気などありえず一人の妻を愛し、右ほほをはたかれれば左ほほを出すように、人と争うようなことはなく、常に愛に満ち溢れ、人にはやさしく、困った人には施しをして、教会では進んで奉仕をし、日曜礼拝と聖書勉強会は何よりも優先して守り・・・


もちろん、それらは、すべて大事なことです。ただ、それを行うから、神の前で正しいものとなれる。わけではありません。僕らが「御前に正しいものとされるのは行いではなくて信仰によるもので、その信仰も神から与えられた恵みだ」と、パウロははっきりエペソ人を通して僕らに言います。(エペソ2:8₋9)


 先ほどの、僕のジェラシーが生んだ、上げ足取りの視点から見て、「私の命令とおきてとを守り、心を尽くして私に従い、ただわたしの見る目にかなったことだけをした。」と神ご自身が明言されたダビデの人生はそのような清い、清廉潔白・品行方正なものだったでしょうか?。


 羊飼いからサウル王に召し出されたのち、8年も王に殺されないように逃げ回る。やっと王になったら、部下の妻に手を出し、妊娠させた挙句、こそくな計略を用いて、その夫を戦地で死なせ、預言者ナタンによって指摘されて、悔い改める。息子たちは近親相姦をし、そのうらみで殺し合い、ダビデ自身も最も愛したであろう息子アブシャロムにクーデターを起こされ、王国を追い出される。晩年は苦楽を共にし一緒に王国を立ち上げてきた盟友、将軍ヨアブをソロモンを通して血の粛清をして・・


 挫折と罪、裏切りと血にあふれた一生と言ってもよいと思います。


 しかし神は、ダビデのことを、後継者のソロモンに語るとき「あなたが、あなたの父ダビデが歩んだように、全き心と正しさをもって、私の前に歩み」(Ⅰ列王記9:4)と、ダビデが「全き心」で「正しく歩んだ」とはっきり言います。


 

 では、僕らの考えや思い、視点ではなく、神の視点から「全き心」で神の御前に「正しく歩む」とは、どのような心で、どのように歩むことなのでしょう?



 「神とともに歩んだ」と聖書で語られる、ノアは、箱舟の大仕事の後、へべれけになってフリチンで天幕で寝ちゃいます。そのため子供3人に呪いを残します。あらゆる面で主が祝福したアブラハム(創24:1)は、神が約束した祝福を夫婦で鼻でせせら笑います。唯一無二の預言者とたたえられたモーゼ(申34:10)は人ごろしをして、逃げ出します。
「わたしのしもべ」ヨブ(ヨブ1:8 / 42:8)は、「もし、裁判所があるなら、神様。そこにでてこい。」と神に食ってかかります。(ヨブ23:3₋4)

 いずれも神にとってスペシャルで、認められ、祝福され、愛された人たちです。


 そして、その中でも僕は、ダビデが最も特別だったのだろうと思います。
 

 それは、神がダビデに与えた、この言葉以上の祝福の約束はありえないと感じるからです。


   「あなたの家とあなたの王国とは、私の前にとこしえまでも続き、あなたの王座はとこしえまでも固く立つ」

                                                        (Ⅱサムエル7:16)

「とこしえ」とは、気の遠くなるほど長い時間、例えば500年、1000年、2000年というものではありません。、「とこしえ」とはこの世が全部終わった後もずっと続く「永遠」のことです。


 つまり、神はダビデに、あなたの家系からイエス・キリストが生まれる。アダムから人類に入ってきた、罪による死を踏み砕き、永遠という存在である神につながる王国を打ち立てる。そこの王はあなたの家系である。黙示録21章の「新しい天と新しい地」の王座はあなたの家である。と言ったのです。


 これ以上の祝福の約束はありません。それを受けたのがダビデでした。やはり、最も神の目に特別だったといってもよいと思います。


 

 ただ、聖書に「ダビデが神の目にもっとも特別なものであった。」という直接的な表記も、彼は、こうだった。だから僕らもこうしなさい。」という直接的な指示は見つけられません。

 でも、神自身が「全き心」で「正しく歩んだ」と明言し、「最高の祝福の約束」をしたダビデが残した詩から、どんなふうに彼が神とともにいたのかが垣間見えます。


   「神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたはそれをさげずまれません。」

                                                         (詩編51:17)


   「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私の魂はあなたを慕いあえぎます。

    私のたましいは、いける神を求めて乾いています。」

                                            (詩編42:1₋2a)



 サウル王に殺されそうになりながら荒野を逃げ回っていた8年、彼の視点は、そのサウル王でも、その後一緒に王国を勝ち取るために戦う仲間でも、自分に油を注いだ預言者を疑うでもなく、ただ神のほうを向いていました。神に嘆き、神に助けを求め続けました。

 人として許されない姦淫の罪を行い、それを隠すための卑劣な殺人まで犯し、それを預言者ナタンに指摘され、自分のしたことのひどさを自覚したとき・・・彼が砕かれ憔悴しきった相手は神でした。

 王位が自分のものとなり、神の箱とともに凱旋入城し、喜びのあまり裸で踊り狂ったとき(Ⅱサムエル6:14-20)の喜びの相手は神でした。

 実の息子に王国を追い出され、荒野をはだしで逃げ回っていたとき。その追い出した息子への恨み、どのように取り戻すか、だれが一緒に取り戻してくれるか。などが関心ごとでなく、ただ神に嘆き、解決を求めました。


 

 人生のすべての場面において、ダビデの目は神以外の物には全く向きませんでした。彼の中心は、神のみでした。

 それがダビデで、そのようなところに、神は「全き心」で「正しく歩んだ」と見たのかな?とも思います。


 ここで、マタイの福音書の有名な聖句が頭をよぎります。

    「神の国とその義をまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えてこれらのものはすべて与えられます。」
                                                               (マタイ6:33)



 人生のすべての場面で「神」がいつも中心にあって、「神の国とその義」しか自分の中になかった人、それがダビデだったのではないでしょうか?僕の焦がれるジェラシーの中、そのような彼の姿が見えてきました。

 そしてその彼に、神は創世記からのすべての人類の中で考えうる最高の祝福(Ⅱサムエル7:16)を彼に与えたのではないでしょうか?




 今日ここにいる、僕とあなたと、イエスを主と告白するすべての者が、全き心で神の前で砕かれ悔いることができ、神とともに喜び、神だけを慕い求めるものと作り変えられていきますように、神の国と義を第一に求め続けられるようになれますように祈ります。アーメン。